雑記

半世紀の逃亡、桐島聡容疑者のまとめ

桐島 聡(きりしま さとし)は、1970年代の連続企業爆破事件の容疑者。

広島県深安郡神辺町(現・福山市)出身。広島県立尾道北高等学校卒業後、1972年4月に明治学院大学法学部に進学。

明治学院大学在学中に黒川芳正や宇賀神寿一と出会い、アナーキズム系新左翼過激派である東アジア反日武装戦線に「さそり」班として参加し、連続企業爆破事件の複数のテロ事件に関与した

身長は160cm位で強度の近視、足が細い、広島弁、顔にニキビの跡がある、唇が厚いなどの特徴を持つ。

1975年4月18日、東京の銀座の韓国産業経済研究所の入口に手製の時限信管付爆弾を仕掛け翌日に爆発させた。これによってビルの一部が損壊した。

警視庁は本事件を中央区内連続企業爆破事件とも呼んでいる。爆弾は同グループが出版した腹腹時計に掲載したもので、同グループで薬剤師資格を持つ大道寺あや子が勤務先から横領した薬品などを使って製造したものが使われた。現在指名手配されている直接の容疑は、このオリエンタルメタル社・韓産研爆破事件における爆発物取締罰則違反であるが、それ以外にも、共犯である黒川らの刑事裁判で、

鹿島建設爆破事件(1974年12月23日。死傷者なし)
間組本社ビル(9階・6階)及び大宮工場同時爆破事件(1975年2月28日)
間組江戸川作業所爆破事件(1975年4月27日)
間組京成江戸川橋工事現場爆破事件(1975年5月4日)
に桐島が共謀・実行で関与したことが認定されている。

1975年5月19日に東アジア反日武装戦線の主要メンバー7人が逮捕されたのを契機に逃亡。直後に黒川が所持していた桐島の家の鍵からまだ警察が把握していなかった桐島の存在が明らかとなり、桐島は警視庁公安部に爆発物取締罰則違反で指名手配された。1989年と1990年、警察庁は過激派の爆弾犯、誘拐犯ら10人を指定の公開手配とした中の1人に桐島を挙げた。

半世紀近くも生死を含め行方がわからず、東アジア反日武装戦線のメンバーの中で、一度も逮捕されていない唯一のメンバーであった。また東アジア反日武装戦線の中で、前科がないただ一人の人物でもあった。

逃走直前まで、東京都新宿区歌舞伎町の大衆料理店でアルバイトをしていたとされる。事件後の75年5月20日に渋谷区内の銀行で現金を下ろした後、同31日に広島県の実家に電話をかけ、「岡山に女と一緒にいる」などと父親に伝えたのを最後に、足取りが途絶えていた。

2024年1月25日、桐島聡と見られる男が入院している旨の情報提供が警視庁になされたことを受け、警視庁公安部による男の特定作業が開始された。翌日、男が神奈川県鎌倉市の病院

(湘南鎌倉総合病院と思われる)に偽名で入院しているところを警視庁公安部によって、その身柄を確保された。男は既に事情聴取に対して、事件の関係者しか知り得ない当時の状況などについて話しており、こうした状況から、警視庁公安部は男が桐島である可能性が高いとみてる。

「ウチダヒロシ」の偽名で入院しており、末期がん(胃がん)を患っていて、治療が行われていたが、25日までに自らが桐島であるという説明を始めたことから、職員が通報した。男は「最期は本名で迎えたい」などと話しているという。

桐島聡と見られる男は、神奈川県内の土木関連の会社で働いていたと説明したため、捜査員が会社に確認したところ、実際に長期間勤務していたことが確認された。