「熊本で起きたことは、なぜ新潟でも繰り返されたのか?」
🧪第1章:鹿瀬工場の変貌──肥料から有機水銀へ
工場の沿革と産業構造
- 1929年:昭和肥料鹿瀬工場として操業(カーバイド→石灰窒素)
- 1936年:隣接地に昭和合成化学工業設立(アセトアルデヒド→酢酸誘導品)
- 1957年:昭和電工に吸収合併 → 鹿瀬工場として有機合成化学へ転換
- 1959年以降:石灰窒素製造を廃止し、アセトアルデヒド生産に集中
🧬第2章:メチル水銀の生成と放出メカニズム
化学的プロセス
- アセチレン+水 → アセトアルデヒド(触媒:硫酸第二水銀)
- 副生物としてメチル水銀が生成
- アセトアルデヒド1トンあたり2〜20gのメチル水銀が排出
- 月産1,500トン → 日産50トン → 最大1kg/日が阿賀野川へ
🐟第3章:食物連鎖と地域文化──なぜ男性に多く発症したのか?
- メチル水銀は川魚に生物濃縮 → 自家消費で大量摂取
- 熊本:男女差なし/新潟:男性に集中(ニゴイを酒肴にする文化)
- 患者は阿賀野川下流域(松浜・津島屋)に多発
🧑⚕️第4章:発見と企業対応──“見つかった時には、すでに終わっていた”
- 1965年1月:椿忠雄助教授が患者を診察 → 有機水銀中毒と推定
- 同年5月:新潟県に報告 → 6月:公式発表
- 昭和電工は同年1月に生産終了 → プラント撤去・工程図焼却
- 「使っていたのは無機水銀」と主張し、責任を否定
⚖️第5章:裁判と勝訴──新潟が熊本より早かった理由
年 | 出来事 |
---|---|
1967年 | 患者3世帯が昭和電工を提訴(損害賠償約5.3億円) |
1971年 | 新潟地裁が原告勝訴 → 過失責任を認定 |
2004年 | 関西訴訟最高裁判決 → 国・県の不作為責任を認定 |
昭和電工は「新潟地震による農薬流出説」で反論したが、科学的根拠を欠いていた。
🧭第6章:熊本との比較──なぜ防げなかったのか?
比較項目 | 熊本水俣病 | 新潟水俣病 |
---|---|---|
発生年 | 1956年 | 1965年 |
原因企業 | チッソ | 昭和電工 |
発見時点 | 排出継続中 | 排出終了後 |
行政対応 | 遅延・忖度 | 迅速な訴訟提起 |
裁判開始 | 1969年 | 1967年 |
「熊本で止めていれば、新潟はなかったかもしれない」
🧓第7章:認定と救済──“認定されない患者”の声
- 国は熊本と同様、厳格な認定基準を維持
- 新潟県は2009年「地域福祉推進条例」を施行し、独自救済へ
- 被害者の証言:「少女はもだえ、犬のように狂い死にました」
✍️まとめ:第二水俣病が残した問い
- なぜ同じ過ちが繰り返されたのか?
- 証拠を消した企業に、責任は問えるのか?
- 認定されない患者は、いつまで待てばいいのか?